| 1980年代後半 |
北海道理容美容専門学校入学。ヨーロッパ研修旅行(ロンドン・パリ・イタリア)へ行って海外に目覚める。 |
| 1990年代前半 |
老若男女関係なく、人間の髪ならどんなスタイルでもできるようになりたいという思いから、ユニセックスサロンで住み込みで修行する。おかげで女性のワンレンから男性の角刈りまで(笑)、顔そりでも何でもできるようになる。コンテストにも明け暮れて数々の賞を獲得する。
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| 1990後半 |
市内の若手理美容師を集めて技術指導をする。ボランティアで自分の教室を開いて夜中までテクニックを教えていた。この頃、年商1億のお店をオープンさせるのが夢で、通信大学にて経営学、経済学を勉強して、会社法(労働基準法)や会計学、ITを独学で勉強したのもこの時期でした。
友人のお姉さんがアメリカ人と結婚をし「海外では日本人美容師が全然いなくて困っている」という声を聞き、自分の技術が海外生活している日本人(アジア人)へ役に立つのであればと思い、さらに、借金をして店をオープンさせた所で、仕事&仕事で人生が終わってしまうのがバカらしく思え、昔見た夢を思い起こし海外へ出ようと決心する。
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| 2000年4月 |
ロサンゼルスで日本人経営の美容室が求人を出しているのを発見し、手紙を送って渡米。しかし数ヶ月でオーナーが自己破産してしまいビザが出なかった。英語が全くできなかくて悔しい思いをしたので、一から英語の勉強をしようと決心し、日本へ戻ってお金を貯める |
| 2002年2月 |
オーストラリアに渡る。自分の名前と出身地を言うのが精一杯で語学学校ではレベル2から始まる。インポータントやディフィカルトの意味がわからず初日のオリエンテーションの説明は???だった(笑) |
| 2002年3月 |
永住権の申請ができるかもしれないとの事から、IELTSを試しに受けてみるも
2.0 という点数で笑えなかった(笑) 悔しくて日本語の全てを止めようと決心、日本人の友達は一人も作らず、シェアハウスもオージーと一緒に住もうと英語取得体制に入る。 |
| 2003年2月 |
約一年間、日本語の読み書き聞き話しを止めながら、英語の勉強も和英・英和辞書の使用もできるだけ使わないようにし、その結果IELTS
4.5まで上がる。 |
| 2003年6月 |
IELTS5.5に達し、Moreton
TAFEのCertificate lll Business & Communication
Skill へ進む、朝5時に起きて勉強→学校で授業→放課後図書館で勉強→夕食時に帰宅の生活で英語漬けに…。それでも授業についていくのが精一杯で泣きそうになりながらも単位取得、11月卒業。
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| 2004年2月 |
理美容師に必要な専門用語を英語で、西洋人のカットやカラーの理論も覚えたい、卒業すると永住権申請に有利、という理由でMoreton
TAFEのヘアードレッシング・コースを受ける。授業初日、先生も生徒も全員オージーで自分一人だけの外国人、ちょっとビビッて3cmあとずさり・・・
同時期にメイクアップ・コースのサティフィケートも取得。メイクアップの基礎を学び、日本と欧米の違いを知る。
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| 2004年3月 |
レジュメを作り就職活動をする。オーディションを受け2件の店で合格するも、こっちから断る、結果は以下のとおり。
1、ステリオ・パパス・サロン→カット料金が77ドル〜110ドルという超高級サロンとは知らずにオーディションを受け合格してしまい、「そんな高い料金では日本人は誰も来てくれないよ〜」と言う理由から断りを入れる。でも練習会には数回参加させてもらいました♪
2、アデレード・ストリートにある某台湾人経営の美容室→オーナーと給料の話をするが「どうして君は働く前から給料の話をするんだ」と言われ、話にならなくて喧嘩わかれ。縮毛矯正に4時間かけて500ドル稼いでも時給15〜だけで、残りの440ドルはオーナーのふところへ行く計算。店のシャンプー台は下水が詰まってゴボゴボだし汚くて、スタッフ達に挨拶をしても無視されるし、同じ日本人の男性美容師さんがいたのに無視されるだなんて悲しい限りでした(涙)
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| 2004年4月 |
United Hair Salonにてレント制で働かせてもらう、家賃を払って店の中の椅子を借りて、シャンプーや消耗品は自分で仕入れるというシステムでしたが、自分で会社登録をして税金の計算をして払い、社会の仕組みを知る良いきっかけとなりました。このサロンに置いてもらわなければ僕の永住権申請は無理だったので有難く思ってます。 |
| 2004年11月 |
Moreton TAFEのCertificate
lll in Hairdressingのコースを全て終了し、首席で卒業(経験があるから当たり前という話も(笑))でも英語は滅茶苦茶大変で、全員オージーの中での一年間の授業は大変でした。 |
| 2004年12月 |
現在のPublic Image
Hairdressing
にお世話になる。僕の条件は「日本の薬剤を使わしてくれる事」「僕のアジア人のお客様へ、僕専用の料金設定をさせてくれること」の二つでした、快くOKをしてくれたオーナーに感謝です。 |
| 2005年1月 |
独立技術移住で永住権を取るために、あと1年学校へ通うという話をボスにしたところ「そんならスポンサーになってやる(英語)」となり、雇用主指名ビザを申請する事になり学校は無し、仕事に集中できる事になる。サザンクロス・タイムスのヘアースタイルのコーナー「大変身Before
& After」の連載を担当することに♪ |
| 2005年2月 |
働いてわずか2ヶ月目で、Pubilic
Imageの中で個人売り上げトップに躍り出て、ボスは「何が何でもヤスのビザを取ってやる!」。僕の技術も気に入ってもらえてボスからの評価も上がる。 |
| 2005年5月 |
ビザの関係で働けなくなる。移民局の捜査官が査察に入りあやうく強制送還になるとこだった(苦笑)
母校の理美容専門学校のパンフレットに、僕の特集記事が掲載されることになり寄稿し有名になる。 |
| 2005年7月 |
2ヶ月以上の休み(労働無許可)が終わり、やっと働けることになり。異常な忙しさ。お客様には申し訳ありませんでした。 |
| 2005年9月 |
僕の内緒にしていたブログが小冊子に載り、一躍有名に。 |
| 2005年10月 |
永住権申請とビジネスビザの発行の順序が違うからという理由で3月に申請した永住権を取り下げる事になってしまう。 |
| 2005年12月 |
業界紙では日本でNo1の「しんびよう」から取材が入る。
リイド社から、海外の理美容事情について原稿を依頼され、原稿用紙16枚(6400文字)を寄稿する。 |
| 2006年1月 |
サザンクロスタイムスと、更に1年間の契約。とうとう僕が写真も撮ることになり、フォトグラフ・デビューか? |
| 2006年3月 |
「仕事愛〜誰もしらない業界の裏側、お話します」に僕の書いた原稿が丸々掲載され発売になりました。 |
| 2006年4月 |
毎年、寄らせてもらう母校での講演も板についてきて、異業種の会合でも講演をさせてもらう。
札幌にて高校時の同期会開催、幹事長とパンフ作成&フォトグラフと会を仕切る(笑)準備にヘトヘト疲れ、体力的に持たずで2次会では撃沈。 |
| 2006年6月 |
サザンクロス・タイムスの「Before&After」のコーナーが終了。さらにバージョンアップして新企画「なりたい私になる!」のコーナーを担当、紙面も倍に広がりメイクアップのコーナーも新設。写真も記事も僕が担当し、楽しませてもらってます。 |
| 2006年8月 |
ビジネスビザの期限が切れ、延長を申請。サロンのオーナーの書類が送れギリギリ提出。ブリッチング・ビザが降りて結果待ち。 |
| 2006年11月 |
まだビジネスビザの結果が出ない。この先どうなるのか??? |